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社長コラム

株式会社ロジックベインの社長 笹岡 隆が配信しているコラムです。

勝利者のマインド


1. 売れないとき、
私は、売れないことや、これに関連する非難などの外的要因に、決して悩まないし、落ち込みません。
私は、また、うまくいかないことに一喜一憂もしません。
私は、また、どのような困難があろうと必ず売り抜く「堅い決心」は揺るぎません。
大切なことは「活発な活動と勉狂(集中度が高い勉強)」に集中して、1年間だれにも負けない努力をしてみます。
そうすれば、自分の周囲の背景が劇的に好転することを知っています。


2. 売れたとき、
売れたときに、はしゃいだり、調子に乗ると恐ろしい失敗がやってくることを私は知っています。
売れたときは、自分の脇が甘くなり、油断しがちなことも知っています。
売れたときは、結果オーライではなく、厳しく自己反省し、敢えて反省点を洗い出して、継続的な成功を狙います。

3. 何事もうまく行かない心って?
物事の処理を「まーいいや」で先延ばしにしたり、処理を中途半端に終わらせたり、判ったふりをして 実は判っていなかったり、必要なときも相手に白黒を明確に伝えられなかったり、 少々な障害ですぐあきらめてしまったり、困難に会うと逃げてしまったり、面倒なことは出来るだけ後回しにしたりすると幸運は必ず逃げてゆくことを知っています。

4. お茶くみを面白い仕事にする方法って一体あるの?
今はなくなったけど、お茶くみのような面白みのない仕事を面白くするためには、「工夫」を盛り込めば楽しくできることを知っています。
例えば、いったい温度は何度のお茶が一番うまいか?、お茶はどこの産地が一番うまいか?、煎茶か番茶か玄米茶か昆布茶か?TPOにより使い分けるとより効果的はでないか?また、どのお茶が一番安くお客様に喜ばれるか?また、ユノミはどうか?お客様に好印象をえるためには清水焼にしようか、有田焼にしようか、いや備前焼が渋くていいななど、その費用はいかほどなのか。急須(キュウス)はどうか?瀬戸の急須より、ミネラルが豊富に摂取できる鉄分が含まれる岩手南部鉄瓶(テツビン)などを使って喜んでくれるお客はいないだろうか?気が付く人は少ないかもしれないが、もし気が付いてくれた人が現れたら、その時の喜びは爆発するのではないだろうか?

そして、そのお客もたかがお茶だけで弊社のファンになってくれるのではないだろうか?更に水の選定はどうか?単なる水道水か?それともevianあたりか?お金がかかるよー。待てよ、お茶はやはり日本の名水にこだわるほうがよいだろうな。
それでは、どこの名水がよいのだ?名水ならお酒の醸造所に湧き出ているよ。ではでは、今度の土、日に名水を仕込みに奥多摩に出かけてみよう。
工夫を盛り込み始めたとたんに自分の"小宇宙"ができ始め、突然仕事は面白く見えてくることを私は知っています。

5. 上司を黙らせろ!
巷では会社とプライベートの領域を分けたがる人が多いようです。また、仕事は「苦」で、プライベートは「楽」と考えている人が多いのではないでしょうか?これは、間違っていると思います。このコンセプトは「負け犬コンセプト」です。
世の中の成功者は誰一人このような考えではありません。成功者は、皆例外なく仕事が楽しいものと思っています。
何故仕事がつらく、苦しいのでしょうか?それは、上司の期待値を超えた仕事をしていないからです。期待値に達しない人達がいつも感じている「やらされ感」が仕事をつらく、苦しいものにしているのです。
それでは、自ら上司の期待値を超えるところに目標を置き、結果を叩き出せば、あなたは上司の信頼を勝ち取り、 自分の企画通りに仕事を進められるようになり、その結果楽しい仕事を満喫できるのです。

幸福感の高い人とは?


「繁栄」という本をキンドルで最近読みました。

テーマは、世界の長寿地域(デンマーク、シンガポール、メキシコ、米国サンルイオビスポ)を調査し、どのようなところで幸せ感が高く、またどのような要因が長寿につながっているかというものです。
この4地域で共通して幸福に役立っているところを割り出し、我々の生活がいかに幸福とかけ離れた生活を送り始めているか警鐘を鳴らしたいと思いました。

まず一番印象的だったのは人間の幸せには、"Social bonds" or "Socially connected"(人的つながり)が必須である ということがはっきりしていました。幸せは人との関係の中にあるというものです!高額の 収入を得たり、人の買えない不動産や車を買っても、その喜びは半年もすれば消えてなくなります。
一方、家族や親戚・友人・地域社会との人のつながりで満たされている人は、長期間にわたり満足感が高く、少々の収入減であっても満足感が高いようです。同じ流れで、結婚している人と離婚や未婚の人の比較では、 結婚している人の幸せ感は約倍以上幸せとのデータがでています。これも、一つのSocial bondsがある例でしょう。

今日本では、人間関係の希薄化と無縁社会と言われる単身世帯の増加が社会問題化してきています。
これら単身人口が近い将来全体の3分の1にまで増えそうだと言われています。
現在は、あらゆるところが便利となり衣食住では不便さが激減してきました。逆にこの便利さが反面人付き合いを不要にしてきました。
人の手間の貸し借りやお互いの協力が必要なく生活の面では自己完結ができてしまうところが問題を複雑化しています。
例外はあるにしても単身者は、幸せの根幹であるSocial bondsがない状態で生活しております。ペットを飼い心の空白部分を埋めるにしても不十分です。

私は、シンガポールの行政が一つのいい解決策になるかと思っています。つまり、両親と同居する若い世帯に減税を施した結果、親との同居率は85%だそうです。ここに、Social bondsの共有が成り立ち幸せな世帯が多く存在しています。

次に、宗教を信じている人の方が無宗教の人よりも幸せであるというデータがレポートされています。
既に日本は無宗教ユビキタス状態ですね。特に都会では信心(Faith)深い人は少ないように感じます。

さて、なぜ信心深い人の幸せ感が高いか?つまり、自己修養、愛情、責任、友情、勇気、忍耐、正直、忠誠心、信仰など道徳観の濃淡が幸せ感に関連していると思われます。自分が正しい生き方に則って生きているという 裏付けが充実感と幸せ感になるのでしょう。我々は、かつて日本人が当たり前に持っていたこれらの貴重な資産を失ってしまいました。

1970年代米国は、自由と個人尊重と自然科学に過剰傾斜して今の日本のように人心が荒れ自殺率が3倍にも跳ね上がりました。
そこで1980年代にレーガン大統領は、日本の「修身」を真似たともいわれる「The Book Of Virtues」を発行し再度米国がかつて皆持っていた道徳観の涵養に乗り出し復活を遂げてゆきます。

道徳観とか修身とかいうといかにも「古い」がまず先に頭に浮かんできますが、しかしこれらが人々の幸せ感を高めてくれるものであるとしたら、 この見方を根本から改めるべきではないでしょうか?

正しいこと、やりたいこと


どうも最近日本は、「老衰」しているように思えてなりません。
政治家は、物事を決められず「先延ばし」をして、仕事をしている錯覚をしていますし(本当に給料分の実績をあげているのかな?)企業は、正規の本業で儲けられず、一番安易なリストラにて採算のつじつまを合わせているのが現状です。 (リストラの場合、経営者が最初に首を切る責任があるのでは?)

また、流行の音楽は「癒し系」と、なんとも元気のないところが気になるのは、私一人ではないのではないでしょうか。
いつから、我々は、「困難に敢然と立ち向かう気概」を失ってしまったのでしょうか。
私共も過去、創業(10年前)からPCの本体・部品を取り扱う会社でしたが、いずれこの薄利の行き着く先は、私共も含めてPC販売会社の屍(しかばね)を大量発生させることは、容易に想像できました。
この危機感から、数年かけて、ハイリスク・ハイリターン型の事業形態に変えるよう努めて参りました。 その結果、現在、ネットワーク系を中心とした事業に軸足を移し、日々研鑚努力しております。


現在の業務
1) SNMPネットワーク管理トータル・ソリューションの6製品

「ネットワ-ク監視 = SNMPc」
「サーバ監視 = CIAgent」
「ルータの一括設定 = NetLine Dancer」
「環境リモート監視 = BoxSNMP」
「シミュレートする = MIMIC」
「デバッグする = SilverCreek」

2) Cisco CCNAバーチャルラボ・シミュレータ・ソフトウェアの製造・販売
「CCNA NetworkVisualizer」

3) レア物海外品の調達サービス
英語、中国語、韓国語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語版等


事業を発展させるためには、社員全員が「精神的若人(わこうど)」でなければなりません。
まして、若年か老人かは物理年齢ではありません。
若人は、「アクション」「変化」」「スピード」「未来」「挑戦」などの言葉に心躍らせます。一方、精神的老人は、「静寂」「変化を嫌う」「おそい」「過去きた道」「安定」等に、共鳴します。

あなたは、どちらですか?

現在、日本の会社や社会が非常に「老人化して衰退してしまっている」という盲点を我々はしっかり意識して、同じ失敗に陥らないために「新しいことに挑戦」 して行かねばなりません。
「精神的老化」は、企業活動の「癌(がん)細包」とさえ言えます。

我々は、並の障害ではくじけないタフな精神力と、新しいものを人より先に敢然と挑戦する気概をもって、IT業界の荒波を乗り越えて行く所存です。
私のスクリーン・セーバは、イラク戦争の"砂漠の嵐作戦'で使われた、草原の夕焼けに離陸するヘリコプターです。
彼らの命がけの作戦を考えたら、我々の存在や活動などゴミのように思えます。
最後は、脈略がなくなって申し訳ありません。
次の言葉で今回は締めと致します。

"正しいこと、やりたいこと"を、過激にやって行こうではありませんか?

私の全体肯定と部分否定


企業の運営上、セクショナリズムを排する方法としてクロスファンクショナルチーム(CFT)という
経営手法や、全体最適は部分最適に優先するなどの話を聞きます。私は、それ以前に個々人がうまく組織に機能する方法や正しいマインドはないかと考え、今よく使っている言葉があります。

「全体肯定と部分否定」という言葉は自分で自己管理するときにも使え、他人(上司、友人、部下)とうまく組織だって機能するための前提として、 この言葉が機能するのではないかと思っています。

まず、自分です。我々は、人生を送るにあたり日々幾つもの課題や問題を乗り越えて生活していかねばなりませんが、その課題や問題の大きさや深刻度にとらわれて知らず知らずに自己を全体否定する方向で考えていく場合があります。
自己否定の末路は、不毛な疲労感と焦燥感に至っていきます。
その結果、うつ状態になることさえあります。

私も、一番つらい思いをしたのは、どん底の状況ではなく(それ以上落ちないという変な安心感がありますね)、見通しがきかない山から谷へ落ち込んでゆく時期やプロセスが最も辛かったし、 根拠のない噂が一人歩きして自分が四面楚歌に至っていくプロセスが一番苦しかったです。

このような時も自分の気持ちをしっかり持って、自分の良さはここにも、あそこにもあるのだと具体的に挙げて"全体肯定"する強い気持ちが必要だと思っています。
私の場合、眼前の困難を乗り越えたらもう一段自分が強くなれ、成長するんだと言い聞かせることにしています。
また、現在辛いことが多いと思っても、未来の自分が現在の自分を見たとき、あの時はよかったなと全然違って見えてくる場合もよくあります。

従って、どのような失敗や問題や困難に遭遇しても自分を絶対的に肯定することは、やる気や平常心を維持する意味でとても大切だと思っています。
但し、時には弱い人間である自分は、すべきことができなかったことなどがよく起こります。必ず改善する事も必要になります。自分を肯定ばかりしていては自己改善ができないことになります。
そこで部分否定が必要になってきます。

次に、対人関係においてもこの全体肯定と部分否定が当てはまります。部下に教育を施し、変わってもらおうとすることは、とてもとてもエネルギーがかかります。
人によっては、教育して部下を変えてやろうなどと労力をかけること自体自分にストレスがたまるから、すべて自分でやってしまうという人も多くいます。
最近は、このような人"関わりたくない人"が増えてきているように思います。ちょっと冷たいんですね。

人を教える時は、机を間に挟み対面する雰囲気で教えるのではなく、お互い一列に横に座って教える感覚が大切だと思います。
つまり、自分は相手を全体肯定して味方だ、支えているのだという感触と空気がまず必要です。そこから話が展開しなくてはならないと思います。但し、改善しなくてはならない点があるからこそ修正してゆこうと部分否定してあげます。決して人の欠点を針小棒大に捉えて全体否定や人格否定に向かわないことが肝心だと私は思っています。

これが人に対しての全体肯定と部分否定なのです。

人生20点をどう受け入れるか?


「パレートの法則」という言葉をお聞きになったことがあるかと思います。「20:80の法則」とも言われます。

20%の商品が80%の売上を上げる。20%のアリが働き、残り80%は働かない。
20%の社員が80%の売上をだす。20%の納税者が80%の納税総額を払う。
重要なもの上位20%を解決すると、80%はほぼ解決するといったことによく使われます。

私的には、違う意味で興味があります。つまり、世の中が自分の思い通りにいくのが20%、思い通りにいかないのが80%くらいに正直感じます。レベルが低くてすみません。

ここで自分の満足"しきい値"を80%におくと、つまり自分の思惑の80%は叶えてほしいと思うといつも満たされない状態に至るということになります。また、20%しか叶わない現実なら最初からあくせくする必要ないと主張する人もいるかもしれませんが、これではかえって生まれてきた意義が問われます。

達成度は満たされないが、自分的に納得できる点はないのか?

もし現実がパレートの法則のように厳しいものだと仮定すれば、現実に向き合う心構えを確立し、もって現実をより割り切れるようにしたいと思いました。それほど、人生は本当に割り切れないことが多いと思います。

自分の未消化(納得できない部分)を解決するためには、満足点を達成率80%におくのではなく納得点を20%におき、この20%を少しでも上げてゆく努力姿勢が肝心かと思います。これにより、不満を募らせず自分に納得感が得ることができます。

巷に「足るを知る」という言葉があります。まさにこの言葉の指すところは、20%のところをもって幸せを感ずる術ともいえます。例えば、まず健康な自分がいる、自分を想ってくれる家族に囲まれている、人並みな生活ができている、善良な人々と一緒に仕事に励めて楽しい、毎日の食事がおいしい、今日おばあちゃんに親切にしたことが感謝された、季節の変わり行く姿に喜びも感じる等、たとえ、自分の思惑20%しか叶えられなくとも、まずこう思える人は人生の納得感を持てた勝者でしょう。

肝心なのは、まずいつも納得感が大きく先にきて、次に足りないことを心で囁いているというマインドステータスが好きです。ただ、これで終えてはならないと思います。つまり、20%を21%、21%を22%と長期にそして懸命に上げていく執着心のなかに、人生の意義のひとつがあるのではないかと思っています。

今回の話は、皆さんへのメッセージというより私自身へのメッセージです。もし、私と同じようなことで悩んでいる方がいて、このメッセージで気持ちが少しでも軽くなったと思って頂ければ、この上ない喜びです。

Boy Wanted


姿勢が良く、きちっと座り、正しく行動し、率直に話す少年。
爪がきれいで、耳が清潔で、靴も磨かれ、衣服はブラシがかけられ、髪は櫛が入り、歯の手入れがされている少年。
話かけられたら注意深く聞き、分らなければすぐ質問し、自分に関係のないことには質問しない少年。
早く行動するが、出来るだけ音を立てないようにする少年。
町ではうるさくするが、静かにしなければならないときは、うるさくしない少年。
楽しそうで、誰に対してもすぐ微笑んで、決してすねたりしない少年。
他人に丁寧に対応するだけではなく、女性や少女にも敬意を払える少年。
タバコは吸わず、吸おうとも思わない少年。
スラングより正しい英語を話そうとする少年。
決して他の少年をいじめたり、自分をいじめる人間を許さない少年。

分からないことを人が話したら「分りません」と言え、間違えたときは「すみません」と言い、行動しなければならない時はすぐ「やってみます」と言える少年。
話し相手を正視し、常に真実を話せる少年。
よい本を多く読みたいと思う少年。
バックルームで小金を賭けるより、YMCAジムで空いた時間を使う少年。
利口に振舞おうとしたり、注目を浴びようとしたりしない少年。
嘘をついたり、下劣なことをするくらいなら職や退学も辞さない少年。
ほかの少年に好かれる少年。
少女の前でもゆとりがある少年。
自嘲せず、また自分のことばかり考えたり、話したりしない少年。
お母さんと仲良く、誰よりもお母さんと親しい少年。
彼が近くにいると楽しくなってくるような少年。
おべっか使いではなく、堅苦しくない、そして独善的でなく健全で生気に満ちている少年。

このような少年はどこでも求められます。家族が求め、学校が求め、会社が求め、他の少年たちから慕われ、 少女たちからも慕われ、あらゆる人々から求められます。

この募集広告は、20世紀初頭に米国で出稿されたものです。

日本の奇跡を生んだ良心


元気が湧いてくる話をしたいと考えていました。

国の批評やIT業界の考えや他企業の評価は、正論であってもある意味、部分修正の話になります。
しかし、元気がでてくる話は、我々のあらゆる行動を横断的にプラスの刺激を与えることになり、部分修正の狭い効果よりか広く価値があると考えました。
まず、元気印として取り上げたいのは、1950-1980年代に奇跡的な高度経済成長を果たした事実です。

私は、この時代を16世紀ローマのルネッサンスや英国の産業革命に匹敵するミラクルを日本人は、成し遂げたと思っています。
1950年の日本の一人当たりGDPは、世界平均とほぼ同じでしたが、広大な国土や資源が何もない日本人が、当時エコノミックアニマルなどと揶揄されながらも、努力と勤勉だけで1980年代には世界平均一人当たりGDPの3倍の高成長を成し遂げるに至ります。

現在の我々の豊かなこの生活は、物理的な資源や農産物といった条件ではなく、我々先達の"血と汗と涙"の上に成り立っていることに深く感謝したい気持ちです。
当時、あこがれの長嶋茂雄氏が1958年-1974年まで巨人軍の現役として"スーパースター"とはなんぞやという定義を教えてくれ、夢で私たちを酔わせてくれました。
あまりに打つために6試合連続四球、最後にはバットを持たずバッターボックスで抵抗する姿などありえないシーンを見せてくれました。バットを空振りすればヘルメットまで吹き飛ばす躍動感、そして勝負強さは抜群の勝利打点の実績です。

躍動感と華やかさとおっちょこちょいが混在する規格外のスーパースターでした。
同時代1965年-1973年まで巨人軍は、V9を達成します。
日本一を9年連続達成するってすごくないですか? そして、巨人軍の勢いとともに60年代の日本の経済成長は、毎年GDP10%弱という驚異的な経済成長を遂げていきます。
これら活力の根底にあったものは、皆がより良い商品を世の中に出し続けようとする飽くなきパーフェクションの追求だったと思います。
つまり、"良いもの"への強いこだわりです、換言すると"良心"へのこだわりでした!

実際には、日本の奇跡を成し遂げた50歳代以上の人々は、自分たちが奇跡を成し遂げた本人だなどという自覚や認識は全くありません。
しかし、なぜこれほどの劇的成長を日本が生み出したのかという検証を行い、 原因を拾い、調査し、現代が失った活力をとりもどすきっかけになればよいと思うこのごろです。


次に、サミット諸国を対象にした日本製品の印象に関する統計データは、ずば抜けたものです。
ドイツと米国は、日本製品の方が自国製品より優れていると感じ、残りの英国、フランス、イタリアなどの諸国は自国製品の次に日本製品がよいと判断しています。

これは何を意味するか?
私は、"集団良心"の総和が、他国よりずば抜けており、それが結果として製品の品質や耐久性、適正価格に投影されたものと解釈しています。
これは、我々日本人が胸を張って誇れるものではないでしょうか?

お父さんや、お母さんがすごいことをやり遂げた人達なんだと、いとおしく尊敬したくなる事実ですね。
我々の欠点を分析するのもいいですが、たまには我々の強みや長所がどこに存在するのかという視点も、自分たちのエネルギーの出力源として大切にしたいものです。

安全は人任せ?


家の近くに錆ついたあばら家があります。そこに大きなドングリの木があります。
我が家ではトトロの映画にでてくる木のようだねと言っておりました。

ところが一昨日、そこの重機業を営んでいる鈴木さん(仮名)が大きな枝を次から次と電動のこぎりで切っているではありませんか。左半分全部切り落とされました。当日私がその場を出くわしたものですから、「何があったのかな?景観や和みが壊され残念だな」と思っていました。

たまたま、休日だった翌日そこに通りかかり「木の伐採には、何か理由があったのですか?」と鈴木さんに尋ねました。近所の小学校に通う生徒のお母さん達が、「あそこのドングリの木は、実を多く落として子供たちの通学に危ない」と学校にクレームをつけたそうです。
学校からクレームがうけた鈴木さんは「本当にこの木がかわいそうです」というのです。
鈴木さんも大事に育てていたのが分かりました。何かこれって本当におかしくないですか?

際限のない便利と安全さを追求することが子供の教育で優先されることなのか、ドングリの可愛らしさや栄養満点の実ということも理解させないで邪魔な小石同様に扱うお母さん達。
子供は、安全に育てることは基本かもしれないけど、すり傷一つまで気にしてドングリや小石まで退けてやらねばならないというのでは、たくましい子供が生まれてこない世の中に益々なっていくような気がします。

むしろ、たくましい子供を育てるには、どうあらねばならないか?と考えたら小石やドングリの道路をかいくぐれる子供に育てる方が良いともいえます。

安全他人任せに関連して、消費期限や賞味期限の制度が日本にできてしまいました。
食べ物が安全に食べられるかどうかなど諸外国では自分の舌と匂いで食べられるかどうか自己判断をし、安全を他人任せにしてはおりません。私などは消費期限などない時代に育った関係から、若い人たちが消費期限の日付とにらめっこし、食べられるとか食べられないと騒いでいるのを見るにつけ滑稽に見えてきます。

自分の足で立って自分の六感を駆使して生き抜く方がよほど人間的だと思えます。

見識と勇気


あまりアピールしない話をします。
しかし、重要な話です。

篤姫、天地人、坂本龍馬のNHK大河ドラマの国民的人気や名所旧跡には歴女ブームを反映し多くの女性が出陣するこの頃です!更に、「もう一度読む日本史」(山川出版社)の日本史人気が続行し、 Amazonでも常に上位にランクされています。これら日本文化を再認識するトレンドが続いています。

自国の歴史や文化を深く掘り下げることは、大変意義があることです。自分の考え方やDNAの中に歴史の一部分が受け継がれていることを発見することは、点の自己存在が過去と繋がり連続線に見えてきます。ストーリが解明できるように楽しいことでもあります。

日本の高度経済成長時代、つまり世界から我々がエコノミック・アニマルと揶揄された時代、日本人は欧米経済や文化の吸収に懸命に奔走した時代がありました。
当時は、現在のように日本文化を声高らかに語るという雰囲気はあまり人気がなく、むしろ海外事情に詳しい人が日本を引っ張るという時代だったと思われます。
例えば、マルクス・レーニン主義に始まる左翼思想なども、とても進歩的と思われた時代でした。 また、戦争敗戦から一刻も早く国を立て直すには、欧米をロールモデルとして突っ走ることでしか最速で国力高揚できなかったともいえます。

しかし、今はG8などの先進国の仲間入りを果たし、敗戦直後の飢餓感もなく、なんとなく気楽に生活できる世の中になってきました。
現在マスコミで言われている不景気とか格差社会とかは、100年単位の歴史を俯瞰すればこの苦しみなどは瑣末なものです。
今言われている生活苦は、生きていくうえで選択肢がなく不自由な生活を指しますが、過去存在した生活苦、"ひもじい程の生活苦"など日本中今はどこにもありません。

我々は、平和な時代への巡礼ではなく、何故戦国時代とか幕末とか太平洋戦争とか「血なまぐさい時代」に注目がいき興味がそそられるのでしょうか?
そこには、生死をかけた人間としてのギリギリの「見識と勇気」を多く見るからではないでしょうか?
これこそが我々の琴線に触れ、感動を与えるからではないでしょうか?

一方、我々の日常ではあまり切羽詰った状況というのは、頻繁にありません。しかも最近は、人と争いたくないという過剰に調和を優先する(予定調和?)傾向があります。
確かに、調和は組織にとって最も大切です。しかし、過剰調和は、本質を突く議論や討論が生まれなく、その結果組織の衰退を招くことを強く懸念します。

胸のすくような「見識と勇気」を我々の同時代にも多く遭遇したいと思うこの頃です!

果物採集


危険から守り給えと祈るのではなく、
危険と勇敢に立ち向かえますように。

痛みが鎮まることを乞うのではなく、
痛みに打ち克つ心を乞えますように。

人生という戦場で味方をさがすのではなく、自分自身の力を見いだせますように。

不安と怖れの下で救済を切望するのではなく、自由を勝ち取るために耐える心を願えますように。

成功のなかにのみあなたの恵みを感じるような卑怯者ではなく、失意のときにこそ、あなたの御手に握られていることに気づけますように。

ラビンドラナート・タゴール『果物採集』より

Let me not pray to be sheltered from dangers
but to be fearless in facing them.

Let me not beg for the stilling of my pain
but for the heart to conquer it.

Let me not look for allies in life's battlefield
but to my own strength.

Let me not crave in anxious fear to be saved
but hope for the patience to win my freedom.

Grant me that I may not be a coward,
feeling your mercy in my success alone;
but let me find the grasp of your hand in my failure.

excerpted from Rabindranath Tagore,"FRUIT-GATHERING"


今回は私の好きな言葉を掲載いたしました。

楽しくなる企画を勝手にひとつ


都会では、土日に人間がわき道を歩き、一般道を車が我がもの顔で中央の車道を走っていることに大変違和感をもっています。
高齢化と人口減少が待ったなしでやってきている時代にどういうことが要請されてくるのかを高齢者や子供は、近所に公園や自分の活動の場が広まれば、そこに人が集いコミュニケーションも起こり、友人ができ都会の孤独者が減り、地域社会の安全が増し、またお互いいい刺激をしあって健康増進ができ、社会保障費や医療費の国家問題の軽減に貢献することだって夢ではありません。
逆に、自動車がウィークエンドの休みの日まで車道をすべて独り占めしなければならない必然性はどこにあるのでしょうか?

こういった社会の変化とニーズの変化を読むなら、土日の車道は幹線道路に限定する。
一般道の20%くらいは法令で歩行者天国=車道公園(私の造語)にし、地域社会交流と活性化と低公害を実現できないかと思います。車道は思っている以上に広いものです。そして長く広範囲ですので、一気に広い公園があちこちにできあがる感覚です。
広い車道を自由気ままに歩ける世界はくせになりそうですね。ほとんどの人は、銀座などの歩行者天国はあるものの一般車道の真ん中を歩いたなどいう経験は都会にはありません。一挙に楽しくなってきます。


車道を含めて国土は国民の生活向上のためにあり、車のためにあるわけではありません。我々が良いと思える方向に、住みやすいように変えてゆくことこそ本来の姿です。

また、車道公園は、単に歩行者天国だけで終わらせず、行政の監督のもとにある程度の遊びやゲームを許可して人の交流を促す仕掛けがあって良いと思います。
人的交流が人の楽しみを増やし安全な地域社会を作るという仮説に立ち推進しようとすると、よくある総論賛成・各論反対議論が聞こえそうです。
勿論、人の交流の場には善良な人々だけではなく、怪しい人や悪人だって混じってくるかもしれません。 また、運営をどうするかといったところで詳細の詰めに負けて何も決められない社会は味わいたくありません。 完璧を求めすぎてなにも動かない社会より“ましでありそう”を試す活気ある社会の方が少々問題が起こっても楽しいのではないかと思います。
極論をいうと「喜怒哀楽が満ちた人生を選ぶか、何もかも恐れて究極の安全を求めた結果、退屈な平坦な人生を選ぶか」ということでもあります。
どちらが良いか判りませんが、今増殖中の孤独死に繋がるような社会はだれも望んでいないと思います。

国の繁栄の元、起業がなぜ日本に少ないのか?


先日、日本経済新聞に「広がる起業志向」という頼もしい記事が載りましたが、 日本はOECD諸国のなかでもダントツで起業志向が低い国です。

日経の高校生を対象にした起業志向アンケートでは、中国が30%強、次いで米国が20%弱、次いで韓国が10%強、日本は6%という傾向がズーッと続いています。
将来なりたい職業では公務員が一位、二位が教員(公務員)これを併せると40%近くが公務員志向です!

因みに、米国は一位が医師、二位が建築士、三位がスポーツ選手という具合です。
公務員は一切ありません。また、社会的に偉くなりたいと考える日本の生徒は45%にとどまるのに対し中国は89%、米国は70%強です。
他国の若者は、いばらの道が前に横たわっていても野心的です。一方、将来が不安になると答えた日本の生徒は89%、米国は58%、中国は47%というデータです。

ここから勝手な推論を展開します。
一番最初に感ずるのは、日本国の構成や運営がすみずみまでキッチリ固められ、更に「ルール遵守民族=日本人」という良くも悪くもこのキャラクターが一層我々の生活感を息苦しくさせていると思います。
例えば、日本のIT業界で販売促進を行う時、自社の販促に協力してくれた人に対してお礼のディナーなどでお返しすることはまれにあります。
しかし、米国では販促行為に食事でお礼ではなく「お金」で個人的にお礼をすることが異常な行為でもなんでもありません。
日本ではこのようなお金を使うことは、法律的にも道徳的にも許されないため日本はどこの会社もやっていませんし、お金を受け取る人も勿論皆無です。米国も同じ法律ですが、裏で行われています。
しかし、それは親切に対するチップ文化を拡大解釈しているとも考えられますし、思考が柔軟であるともいえます。

また、例えばソフトウェア事例紹介のために広告掲載承認をとると例外を除きまずまず「NO」といわれます。
FacebookにしてもLinkedInにしても個人情報記載は、日本人の場合特に慎重に個人情報を公開する傾向があると思われます。
最近は、個人情報情報の過剰で家の表札まで出さない家が増えています。これを日本人のチキン野郎というのか小心者というのか、縮じみ志向と片付けてしまうのは簡単です。しかし、私は3点違うように思います。


日本人は、まず良くも悪くも「過剰な潔癖症」です。「完全無欠」が理想であり生きる道と勘違いしています。
しかし、完全無欠を追求して立ち往生することより、60点であっても前進することの方が遥かに実社会では役立つことが多いのがこの世の中です。
完全無欠方式は、アカデミックスマートの世界では役立ちますが、ストリートスマートの解答のない実社会の世界では実践的ではありません。
立ち往生をもたらすことが多い考え方です。これらは、前述のように異常な慎重さや用心深さを引き起こしていますし、 自分の将来のシミュレーションが細かすぎて欠点が目立ち、その結果将来不安が増幅するということになるかもしれない。
このように我々は、気持ちに独立志向があっても立ち往生し、踏み切れないという結果になっているのかもしれません。

次に我々は「過剰な安全や安定」を重要視するだけではなく、かぎりなく求めます。
それも自力安全ではなく他力安全にすがる傾向があります。その結果が、公務員人気なのでしょう。米国の従業員は、会社の事情によりレイオフや解雇はあたりまえです。
当然産業における就業人口の流動化が自然に生まれることで、適材適所の人材配置を作りあげることができるのです。一方日本は不況産業に人材が無用に滞留し、 不況だといって土建業救済のために公共事業費(税金)をジャブジャブ使い、国の台所は火の車です。自分の職業が安定しない米国、終身雇用の名残をとどめる日本との比較をすれば起業志向が低くなることもうなずけます。
そして気づかねばならないのは、この「過剰な潔癖症」、「過剰な安全志向性」、「過剰な、、」は、バランスを欠き弊害を必ず起こすという視点が必要と思います。

三番目には、日本社会の起業人に対する冷めた目です。「勇気ある人」をあまり尊敬しない文化です。むしろ、大企業をドロップアウトして起業したら「大企業での負け組」的な見方です。
昨今、勇気より小役人的な知識やスキルをより評価する文化もどうかなと疑問に思えます。米国では、起業すると親戚、友人、周りから拍手喝采を受けて起業人の勇気をたたえます。
ベンチャーキャピタル、エンジェルなど起業を取り巻く環境も遥かに整って起業人をサポートしています。その結果、国が繁栄するのです!!ここが大事なところです。

我々は、遠い過去の勇気ある武将や傑物を尊敬しますが、同時代に生きる人生を賭けた起業を尊敬しないという矛盾をもっています。
会社が成功しようがしまいがまず起業に挑戦することに我々は拍手喝采して送りだしてやれる文化にしたいものとだ思います。
それが、結果的に国の繁栄というローマへの道へ通じるのです。決して国が規制緩和をしただけで国は豊かにならないという深層が横たわっています。

公務員就職殺到の原因とは?


今日の日経新聞の「春秋」に公務員就職が圧倒的に人気があるとの記事がありました。
公僕は有名無実で、公務員は民間水準より給料が高く、リストラもなく、定年後の手厚い退職金や保護があり、転勤も原則なく、個人の生産性は厳しく問われない人生を送れるのですから魅力的ではあるでしょう。

しかし、毎年人事院勧告といって"民間並み"の美名のもと公務員給与を正当化し、民間との格段の待遇格差が生まれているのが実情です。"民間並み"という概念が制度化されていますが、どこにその正当化の根拠があるのでしょうか?

逆に、公務員は民間並みに生産性を問われていますか?
生産性を問われず給与・待遇は民間並みというのは公平感欠如だと思います。
いまや良識ある国民は、公共サービスや制度に頼らず自分の身は自分が守るという考え方に変わってきています。国民に見放されつつあるサービス提供側が、なぜ民間並みを叫び、こんな厚遇を受けること自体を恥ずかしく思わないのかと不思議に思います。

しかし、ちょっと待ってください!
いったい何が根本問題なのでしょうか?

まず、第一に民間の力強い産業が衰退してきたことがあると思います。日本の成長期の電器産業や自動車産業などの経済の牽引車が弱体化しています。
第二に日本人の伝統的な安定志向という側面があると思います。
最後に、これが最も問題ですが、日本の政治家のリーダーシップの欠如がOECD 37ケ国で最後から2番目という汚名です。
我々は明治維新期の英傑や偉人に触れ、昔の日本には多くのリーダーがいたのだと錯覚しがちですが、そうではないでしょう。時期は違いますが、第二次世界大戦の日本の敗戦は300万人ともいわれる戦争犠牲者の大半を、リーダーシップ欠如と本質を戦わせない曖昧さで、餓死と病死の犠牲者にしました。


日本は、リーダーがそもそも少なかった国です。
しかし、組織が大きければ大きいほどリーダーの役割は重大になってきます。
今日本の政治家は、難しいことを解き明かすために機能不全に陥っているのではなく、悪いところがわかっているのに損を被る利害関係者をだしたくないという強迫観念に縛られて何も決められない状態だと思います。

全体最適のために部分最適を、誠意をもってそして果敢に取り払う勇気や信念が必要です。
そうです、勇気が、信念がなさすぎるから何も動かないのです。

これで私の話が終わってしまうと"政治が悪い"という普通の話になってしまいますが、ひとつ提案があります。

今やインターネットで即時に数万人のアンケートが取れる時代です。動かない政治家や仕事をしない政治家をインターネットをつかって評価し、それを政治に反映させれば、いまのようなテキトーな政治は終焉させられると思います!

インターネットを利用すれば、手間もお金もかけずに住民の評価を吸いとることができます。
政府も地方自治体も毎年住民と国民のインターネットによるアセスメント(評価)を実施し、それを翌年の政治家・公務員給与に反映させればよいのです。行政は営利でやっていないという声も聞こえてきそうですが、住民の満足度が絶対です。行政の存在は、住民サービスのためにあるのですから。

どの国もそのようなことをやっていない?
結構です。それなら、日本が最初にやるのです。

問題は、どの国がやっているやっていないではなく、国民の幸せ向上になるシステムを敢然と作りにいかなければならないということにあるのです。

この提案を日本全国一斉にやるとなると法律論がでて総論賛成、各論反対で消えてなくなります。ですから、このアセスメントをできる村、町、市などの真に住民サービスを考えている心ある現代のリーダーの方々が、他にとらわれず、まずやって見ることです。

日本を変えるのは頭である政府からではなく、尾の部分の人たちが数多く立ち上がり、日本を変えていくのです。もう旧来の国庫補助金は今後期待できにくくなります。変えるきっかけは、インターネットアセスメントです!簡単です。

Cisco Live参加の感想


米国サンディエゴで行われたCisco Live(6/11~14)に弊社展示ブースを持ち、Net LineDancerの営業活動を行なってきました!
日本やアジアからのネットワークベンダー参加企業は弊社がたった1社です。

市場規模と成熟度を掛け算して比較すると、米国IT業界の規模感は日本の10~20倍という感じです。
国のGDP規模比較では単純にITは計れません。また、製品単価もそれに伴いはるかに厳しい戦いが強いられます。

しかし、真に合理化を推進し価値を生み出すものに対しては、アメリカは寛大で懐が深い国です。
我々と比較になりませんが、過去日本のSonyやホンダ、京セラなど新参企業は米国で市場シェアを獲得し、保守的な日本市場の扉をこじ開けてきました。


最後に、この先進のマーケットに於いても弊社Net LineDancerは、優位に戦えると確信して帰ってきました。米国でも実績をあげていきます。

Steve Jobs本の内外価格差!


他国では本のディスカント競売が当たり前の中、世界中で日本だけが本を定価売りし、この異常がいまでもまかり通っています(再販価格維持制度**文末参照)。
例えば、いま旬の「Steve Jobs」の本でみますと、この価格差はドル本体価格のなんと4.1倍です。

つまり「日本語版3,990円 - 英語版960円($11.99)」=3,030円(差額)です。
差額(翻訳・製本・流通)が英語版本体価格より3倍高い異常なことになっています。
我々読者は、出版社にしっかり舐められていますね。
憤りを感じませんか?

なぜこのようなことに日本人は声をあげないのでしょうか?


弊社もソフトウェアの日本語ローカライズを行い販売しておりますが、翻訳の部分は感覚的にいうと全体リソースの20%もかかるかどうかというところです。
それが本体の3倍の流通価格がアドオンされているのです。

今や近隣の中国、台湾、韓国の人々は、英語版のソフトウェアを使いマニュアルも英語で習得してスピード習得と低コストで同じ業務を執り行っています。
日本人だけ甘えて日本語にこだわっているうちにこのような暴利を出版業者にピンハネされているのは、我々の日本語にこだわる内向き志向からくるのではないかと思います。




日本でもKindleが発売され、さっそく入手しました。
ところが、Amazonの世界戦略で、日本発信の購入依頼は全てKindleにおいても不当に高いです。
既に米国ドル価格で買えなくなったうえ、以前買った英語本のライブラリは共有できません。
同一の本が日本円価格が1,621円で米国ドル価格が約1,000円です。
知っての通り、日本のiTunesの1曲当たり150円に対し、米国では0.99ドルで85円位です。

日本人というのはサービスの完全性はとことん求めるものの、財布のヒモは開きっぱなしの状態で、海外のメーカにいいように搾取されているようです。


ウィキペディアより:
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再販売価格維持(さいはんばいかかくいじ、英語: resale price maintenance)とは、 ある商品の生産者または供給者が卸・小売業者に対し商品の販売価格を指示し、それを遵守させる行為である。
再販売価格維持行為(再販行為)、再販売価格の拘束とも呼ぶ。

要はメーカーが小売業者に対し商品の小売価格の値段変更を許さずに定価で販売させることをいう。
再販売価格維持は、流通段階での自由で公正な競争を阻害し、需要と供給の原則に基づく正常な価格形成を妨げて消費者利益を損なうため、 資本主義経済を取る国の多くでは、独占禁止法上原則違法とされている。
但し例外的に一部商品については一定の要件の元に再販行為を容認している場合があり、それを再販制度と通称する。
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